2017年3月11日土曜日

3.11

[天気]晴れ寒い

長いし、自転車のことは書いておりません。


毎年この日になると、書こう書こうと思っていたことを書こうと思います。
たぶん忘れないと思うのですが、忘れないように。

私は、2011年3月11に津波をこの目で見ました。だからと言って自分のことを被災者だと思ったことは一度もありません。「被災地にいた人」という定義がよいのではないかと思います。
被災者とは、自分や親しい人が命を落としたり、家を失った人、と定義しています。

当時私は多賀城にある工場に仕事で常勤しておりました。
TV局のリポーターがタクシーでギリギリ逃げ込んだ場所といえばわかる方もいるかと思います。

その週、担当していたプロジェクトの進捗が悪く、どうにも納期に間に合いそうもない感じだったので、仕事仲間と「なんか天変地異でも起きてくれないかな」などと言っていたことを思い出します。
また、あの日の前(一週間ぐらい前?)に大きな地震があったのも覚えています。

そして当日。
大きく長い横揺れ。ビルの5階にいたのですが、あまりにも経験したことのない揺れだったので「ビルが破断するのではないか?」と怖かったです。

私は小学生の時に宮城県沖地震を経験しているので、地震の恐ろしさは知っていました。
先の大地震では、建物崩壊により多数の方が亡くなりました。特にブロック塀の下敷きになった子供が多かった。
だからまず建物が壊れる恐怖が頭に浮かびました。
すぐに避難行動に入りました。
「この場所に戻ってくることがもうない、あるいはだいぶ先になるのでは?」という予見がして、コートを着てカバンを持ちました。避難時の行動としてはNGですが、自分なりの判断です。状況的に時間的な余裕もだいぶありました。

建物を出て近くの公園にたどり着いたときにホッとしました。これでOK。おそらく危険なので建物には戻らず、ここで解散になるのではないかと考えながら時を過ごしました。

しかし、なかなか次の行動指示が出ません。
どういう状況なのか。なぜこんなに待つのか。
あの日は今日と同じく寒くて、小雪がまっていたので、早く開放してほしいと思っていました。

しばらくすると「ビルに戻ります」という指示。

「???、なんで!」と不思議に思いました。危ないだろう?

どうも、元いたビルではなく比較的新しい別のビルに行くようです。

そしてビルの二階で待機、とのこと。
「いったい"何に対して"待機してるんだろう?」と思いました。

それからだいぶたってから「もう一階うえに上がります」という声。
「???」
避難係の人に「なんでうえに上がるんですか?」と訊いたら、小さな声で「水が来てるんです…」という答え。

「水?」と聞き返すと、彼はただうなずきました。

この段階で状況を把握している人は、情報を伝搬されたごく少数の避難係の人ぐらいでした。(グループ全体の人数は50人くらいか)
まわりの人はあまり疑問もないのか、ただ指示に従ってました。

水ってなんだ?と思って(私は少し背が高いので)高いところにある窓から外を見てみました。

次の瞬間、人生で初めて「言葉がでない」という身体的状況になりました。

津波が構内に入ってきていて、車やら看板やら、なにやらかにやらがどんどん流されています。
津波は映画で見るように、ザバーンとやってくるのではありません。
建物の中からだったから、音もありませんでした。圧倒的な水量で、もりもりなだれ込んですべてを飲み込んでいきます。いわば海そのものが移動してくるのです。
そして飲み込まれたところは、瞬時に海底になるのです。

自分の頬をつねりました。
これは夢だよな、と。

そして意識するもなく「あー」っとアホっぽい声を出してました。
「どうしたの?」と職場のTさんに訊かれて、「つなみぃー」と窓を指差しました。今思いかえすとアホの子そのもの。

周りの人は「またー、もけけさん、ふざけて嘘ばっかー」と言ってました(日頃の行いか…)が、私は「ホントなんだよ」というのが精一杯でした。まあ私がムキなって説明する必要はない。

いずれみんなしる。

ここまで書いてきて、私も含めて誰も津波がくるなんて思っていなかったことが、あらためてはっきりします。

私のいたところは、海から1km離れていて、こんなところに津波がくることなんて普通の頭で考えたらありえないことでした。あの日より前に「ここに津波が来るぞ!」なんて言っている人がいたら狂人扱いされたことでしょう。

あの日、真面目に避難計画を実行していただいた係の方々に、この場を借りてお礼を言いたいです。
彼らが間違った判断をしていたら、私を含め1500人が死んでしまってもおかしくなかった。

水かさが増してきているということで、その後、五階まで登った。
その建家は、普段は使われていないところだったので、電線がむき出し、コンピューターモニターがそこら辺に転がっていたりして、「これ映画の中の出来事では?」感がすごいことになってました。

何回か津波のまさに波状攻撃があり、これは長丁場になりそうという雰囲気が漂う。
夜になり、まだ水が引かないという情報が入ってきて、これは閉じ込められたのかということを認めざるを得なかった。

非常用ラジオがあったので、みんなで聴いた。
もちろん明かりはなく、食べるものもない。そして寒い、床が硬く冷たい。
ただ、自転車乗りなので自分の体力とエネルギーの関係計算をできるのは非常に役立った。

じっとしていよう。

携帯の電源も切った。使う必要があるときにだけ使おう。今はどうせつながらない。

横になっていると、いびきの合唱が聞こえる。寝れる人が羨ましかった。
起きている人もいたので、少し言葉を交わした。できるだけくだらない話をした。こんな時に厳しい話をしたって、糞の役にも立たない。非常時には、無駄話が無駄ではないことを学んだ。

夜遅くになって、ラジオが「あらはまに、にひゃくたいほどしたいがあがっている」と言う。
言葉は理解できたが、なんの話なのかしばらく理解できなかった。

したいがあがっている。

外から「たすけてくれー」という声が聞こえてくる。
車の上に人が乗って、助けをもとめているということだった。骨折して動けないとのこと。
何人かが声を掛けたり、救出方法を考えたりしていた。
自衛隊がきて救助された。安堵した。本当によかった。
部屋には、避難してきた付近の住民のかたもいて、犬も一緒にいた。よかった。

ほんとうによかった。

夜が明けて、みんなで外をみた。とんでもない光景だった。いたるところ、泥と車だらけだった。
「あーあれ俺のくるまー」と言っている人がいる。
自分の車はどうかなと思った。ここよりは海からはなれたところに置いてあるから、もしかして大丈夫かも。

構内は道路より少し低くできていて、水が引かないので、外にでることができない。
筏のようなもので脱出する、という当初計画が発表される。
一人あたり10分程かかる模様。1500人いるのでえーっと?

なんとか他の脱出方法を見出してもらったようで、階段を降りて、室内に入ってきた車などの上をよじ登ったり、水に脚をつけたり(とても冷たかった)してなんとか構外に出た。ちょっとしたサバイバルだった。
周りの人は、脚が濡れないようにビニールをかぶせたりしていた。

出れたのはいいが、ここからどうやって帰るのかという課題が現れた。
家まで20kmある。
選択肢はなかった。歩いて帰る以外に。

同じ方向の人がグループになって、歩き始める。
「なにか恐いものを見ても、ひるまずに歩くんだよ」と周りの人に(その実自分に向かって)言ったのを覚えている。

濡れたソックスを脱いで、直に革靴を履いてあるいたので靴擦れで血が出てきた。

しばらく歩き、津波が到達しなかった地域に入る。
そこは全く別の国のように見えた。

膝下がドロドロな私達をみて(ビニールを脚に被せたり、血を出したりしてたし)小さな声で「わー」っと言っていた。

喉がかわいたので自販機で何か買おうと思ったけど、どれも電気がついてなかった。不便だなーと思ったけど、この後もっと不便で大変なことが山ほど押し寄せてくることを、私はまだ知らなかった。

利府、岩切を過ぎて、行動をともにしていた人たちと一人づつ別れていく。
一人になって、岩切・泉間の田んぼの中を走る真っ直ぐな道路を歩く。この道路が一番ひどくやられていた。電信柱が大きく左右に傾いている。道路もうねっているのか、歩いていると目が回る。
田んぼの上に建築物を立ててはいけない。

正直、歩くのが辛い。24時間以上水すらも口にしていない。
「もけけさーん」と声を掛けられる。
あれだ、幻聴だ、知ってるよ、と思って声の方に振り返ると、同じフロアにいたWさんだった。
タクシーに乗っている。なんてこった。他に選択肢あったんかい。
一緒に乗せてもらった。あっという間に家についた。

家に入ってみると、自転車が1台倒れているだけの被害状況だった。
「ここも別の国だな」と思った。

その後もいろいろ興味深いことがあって、こっちのほうが書きたいことなんだけど、それは別の機会に。

最後に、震災はたくさんのものを奪いました。

しかし「ひどいことがあった」後、それをはね返し繁栄を築いた実例が歴史的、世界的にもたくさんあります。日本の戦後などは、その最たる例です。
「希望」の意味と効能をより濃く理解する人々が、多くなるからだと思います。

私は震災を経験し、東北の地で育った子どもたちの中から、強くて優しい日本のリーダーが出てくるのではないか、と確信に近い予感をもっています。
大人たちのくだらない議論に付き合うことなく、しっかり成長してほしいと願っております。
私も、その人(達)の邪魔にならないように、生きていきたいと思っております。

私が(バッテリーが切れそうな)携帯でとった写真を載せてます。
私が知っている、ほかでもない日本で、6年前に起きたことです。

震災で亡くなられたかた、大事な人を亡くしたかた、まだ避難生活を送っているかたに心よりお悔やみ、お見舞申し上げます。

脱出

構内の様子

石油コンビナートの火災

産業道路

産業道路その2

流されてきたタンクローリー

セブンイレブンの駐車状況

45号線へ抜ける道

国道45号線。ここまで水がくるとは

利府から見たコンビナート

歩いているうちに日が暮れた

後日見に行った車。ながされはしなかったが完全水没。じっと俺を待っていたのか(涙)



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