私はなぜレースをするのか(あるいは自転車に乗るのか)。乗鞍の帰り道、時間がたっぷりあったので考えてみた。
だってさぁ、キツイじゃんレースって。
前からこのことに関してきちんと書いてみたいと思ってたが表現するのが難しかった。
ある単語が頭に浮かんで、辞書を調べてみると実在したので、勢いに乗って書いてみた。
「玉石(たまいし)」という言葉。
ぎょくせき、と読むのが一般的であるが、たまいしの方が私のイメージに近い。
「魂(たましい)」とは違う。魂では大げさすぎる。
それには善悪という概念はなく、喜びだったり、怒りだったり、悲しみだったり、希望だったり、エロさだったり、様々な感情のこぼれかす。
意識や記憶からこぼれ落ちたか、意図的に端に追いやったもの。
それは日々少しずつ増えていって、放っておくとなかなかやっかいなことになる。
致命傷になることさえある。
トレーニングという行為は、玉石を日々集める作業。
集めて集めて、まるめた玉石群を、背負ってレース会場にに持って行って、ゴール地点に置いてくる。
これが私のレースのメタファ。
なので、いいできであれ悪い出来であれ、レース後は、心がクリーンで見渡しのいいものになっている。
玉石はもちろん他人の目には見えない。
しかし(勘違いかも知れないが)ゴール後に会った人たちに「ああこの人も玉石を持ってきたんだな」と思うことがある。
まあ自転車レースでなくともよいのですが、今はコレがベストな方法じゃないかと思っている。
2 件のコメント:
久々のもけけさんの哲学的な記事、おもしろーい。
(2012年の乗鞍送辞もけっこう好きな記事)
きっと、私が遅いのは、レースに出ても頂上で玉石を降ろせてなくて、積年の重量がずっしりだからでしょう。。。(じゃなくて、単にトレーニングしてない。。。)
ふくふくさん
そう言ってもらえるとほっとします。
こういうのを書くのは勇気がいりますね。こっぱずかしいです。
2012年の記事、読み返してみたら、同じようなこと書いてますねー。
安心したとともに、あまり成長していないなと思いました。
赤城では頂上で玉石を叩き割ってください!
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