2019年4月17日水曜日

骨折日記3ー退院(入院生活からシャバに出るまでと御礼)~2019/03/20(水)


○術後経過
術後の最初の週は何をやるにも時間がかかった。
ベッドから起きるのに5分、トイレ正味10分、ベッドに横になるのに5分。
つまりトイレの1ターンに20分を費やす。
手術の影響なのか頻尿で夜中に4~5回トイレに行くのでなかなかの重労働であった。
おそらく結構な出血もあったはずなので、基礎体力も落ちているようだ。

お風呂というかシャワーは火曜日と金曜日の2回。
入院してはじめてのお風呂は手術の一週間後の3/12(火)だった。実に10日ぶりのシャワー、くるおしいほどにお湯が気持ちよかった。

シャワーの次の日だったかに、松葉杖に移行。
両松葉は両手が塞がるので不便である。
2回めの風呂では全裸松葉杖という技を披露した。
2~3日後に看護師さんが片松葉でも大丈夫じゃね?と言ってくれて片松葉に。

振り返ると主治医やリハビリの先生はあまりスケジュールを明言しなくて(おそらく私の年齢の症例が少ないせいだと思う)、看護師さんのサジェストにより自分の現状と今後が見える、といった具合だった。

微熱が続いていることと、歩くと患部から「ゴリゴリ」という感触が伝わること、が気になる点だった。
どちらもちょっと怖い。

微熱は退院の前日まで続いた。
ゴリゴリは患部の腫れが引くに連れて鳴らなくなった。
おそらくどちらも腫れと因果関係があったのだろう。

4人部屋なのだけれども、結局最後までルームメイトはSさん一人。
Sさんは50代に見えるけども60代なかばで、面白い人だった。
なんというか、人生の楽しみ方を知っている人で、他の人に対してもサラッと(言いにくいことなど)も言ってしまえるような明るさがある人だった。
彼のことを書き出すといつまでも書き終わりそうもない。
とにかくご一緒できたのは人生におけるラッキーなことの一つだと思う。
彼は私に他人への甘え方を教えてくれた。

さて、入院生活で気になるのはやはり退院時期、というか社会復帰時期。
実は真面目な人間なので、仕事のことが気になって、この時期はよく眠れなかった。
毎日長くても10時間、短いときには9時間しか眠れなかった。

自分は趣味で仕事に穴を開けるということだけはしまい、と固く心に誓っていたのだが、誓いなどなんの役にも立たないことを認識した。

今回の骨折騒動を通して、一番勉強になったのは他人に迷惑をかけずに生きることはできないということ。
開き直っているわけではなく、どうしても人に甘えてしまう状況というのは必ずくるのだ。
例えば年をとったら?誰だって一人では生きていけなくなる。社会はそういうふうにできているのだ。
人に甘えることを極端に嫌ってはならない。今まで自分は極端に嫌っていたふしがある。
もちろん正当な理由があって、一方的でなければという大前提の上で。

あと311を病院で迎えることになるとは思わなかった。
くわえて、Sさん宅は多賀城で当然被災者だった。長く避難所で生活していた。
看護師さんや掃除の人も被災を経験した人が何人かいた。
改めて震災の大きさを感じた3月でもあった。

○退院
3/20(水)
入院生活になれてくると、これはこれでいいもので、食事や睡眠もまったく問題なく、退院のことを考えると逆に名残おしい気持ちをいだくようになった。
人に話しかけるときはできるだけ名前で話しかけたいので、我々を担当してくれるグループの看護師さんの名前は全員覚えた。

3/14に看護師のKさんに社会復帰を早くしたいと相談したら、その日のうちに先生が来て「病棟で17日退院だとききましたが」と。
Kさんは影の実力者かなにかなのか。
先に退院日がきまっていた、Sさんよりも2日はやく退院することになった。

受傷後、初めて外に出る日が退院日になった。
翌日が祝日なので、すこし家のことをやって、すぐに職場に復帰することにした。
シャバでの松葉杖生活は大変だろうけど、これまでのことを考えたら大した問題ではない。

退院日は母にたくさん荷物をもってもらった。
これまでの人生であんまり記憶に無いのだが、母にお礼を言った。

家に帰ると、家の作りの厳しさに驚いた。介護ベッドにどれだけ助けられていたか気づいた。
トイレの便座も低く座るのに難儀したし、風呂桶に至ってはそびえ立つ壁のように感じだ。
道路にかんしても、体の一部が機能していないと少しの段差も命取りになるということがわかった。
身障者のかたがたはこんなにも厳しい生活をしているのか。

ここからは御礼。
厚く厚く御礼申し上げます。

加美警察署のみなさま
大崎市民病院のみなさま
泉整形外科病院のみなさま
ツイートではげましてくれたみなさまとくに、大腿骨骨折を経験なさっているICHYさん、よっしーさんの言葉(とブログ)は私に光を与えてくれました。

それからすてきな退院祝をくださった、β-endorphinのみなさま

そして、かっちゃん。

人は誰かに頼って、そして頼られて生きている。
人と言う字は(略

私の方からは以上です。

すてきな退院祝い(8万円也)

ここにいる人の事務員以外全員にちんちんさえも見られました

2019年4月15日月曜日

骨折日記2ー手術(基本的人権を取り戻すまでの戦い) 2019/03/02(土)~

基本的人権は衣食住と言われている。
否、衣食住排(泄)である、とここに宣言したい。

○転院
3/4(月)
病室は6人部屋(ストレッチャーで上を向いての入室・退室だったので間取り等不明なまま)で常にカーテンがひかれているし、自分は上を向いていることしかできないので、他の入院患者の声だけが聞こえる。
みなさん、寝たきり仲間のようだ。

転院先が決まらない為、当然手術日も決まらない。この2日間が精神的に一番きつかった。
排泄との戦い。尿瓶、差し込み便座(という存在を貴兄は知っているか?)
ベッドの上での排泄は精神的にも肉体的にも非常に困難である。
これから超高齢化社会がやってくる。この問題、なんとかならないのものだろうか。

開けて月曜日、転院先が決まった。
自分の場合、ストレッチャーで移動しなければならないので、介護タクシーというものを手配することになる。
なんとなく公共のサービスのような響きだが、民間のタクシー会社が提供するサービスである。
完全予約制なのでジャスト・イン・タイムで手配しなくては転院できない。
転院元病院、転院先病院、付添の家族に調整をしていただきなんとか3/5(月)中に移動できることになった。

介護タクシーのつくりは先日はじめて乗った救急車とほぼ同じだった。もちろん医療機器等は違うが。

転院先は家の比較的近くの整形外科専門病院。

まず外来扱いで診察を受けるという儀式が必要。ストレッチャーに乗せらてた状態で待つ。
外来病棟はここ何日かの入院生活とはうってかわって、ガヤガヤしていて気が滅入った。
診察を受けると、先生から「退院まで最低1月」と言われて、非常に落ち込んだ。
自分は2週間くらいかなと思っていた。
手術は明日(3/5火)していただくということで、安心した。とにかく手術をしないと何も始まらない。

入院病棟に入ると、外来とはうってかわって静かで落ち着いていた。
古いけど前の病院より一人あたりの面積が広い。

ここでも排泄問題が心に影をおとす。前の病院ではみんな寝たきりなのでお互い様だったが、この病室の他の2人は自分でトイレに行ける方々だったので、排泄に対する考え方がが違う(はず)。
明日までだからがまんすることにした。
が、尿は難しい。というか尿を出さないとかなり体にわるいらしい。
もうギブアップして、カテーテルを入れてもらった。精神的に一番きつい夜だったが、看護師さんに助けてもらいなんとか夜が明けた。
看護師さんが女神に見えた。白衣の天使とはよくいったものである。あやうくプロポーズするところだった。

○手術
3/5(火)
手術は午後3時。待っているの時間がとても・とても長かった。
母親に手術の間一人で待ってもらうのはとても心苦しかった。親不孝ものである。

ベッドのまま手術室の入り口まで運ばれる途中、「目を閉じててください」と言われる。
ライトが眩しいらしい。目を閉じているととても不安になる。
手術室のゲート(宇宙戦みたい)でストレッチャーに乗り換え。
中に入って手術室を眺める。こ、怖い。
なんか無機質でだだっ広くて。理科室の広い版ながらなんか資材とかが壁際に並べてあって。
「一体俺をどうするつもりなんだ!」と思ってしまった。骨をくっつけてもらうんだった。
そんなこんなしてたら、突然に麻酔の先生が「いま麻酔を入れました」と言った。おお、もうはじまったのか。

主治医の先生が「もけけさん、それでは…」。
あまり言葉は聞こえなかった。
なぜかと言うと首にフリースの前掛けをかけていらして、気を取られてしまったので。縁起物かなんかなのだろうか。

「麻酔が効いてきましたか?ぐるぐるしてきたら効いてきたということです」と話しかけられるも、よくわからない。
なんか確かにボワンとしてきた感じがある。
実は手術に対する不安は全身麻酔のみだった。
あとのことは先生を信じるしかないので。
麻酔に対する不安とは具体的には「効かなかったらどうしよう。効かないまま手術されたら嫌だな」ということ。
そんなこと絶対に無いんだけど、その疑念が最後まで拭えなかった。変なとこが心配性な自分が嫌い。

そして、視力も聴力もまだあるうちに、手術台に移動される。
「おいおい、まだ効いてないよ」と手をあげようとしたが、体は動かせない。金縛りのような感じ。
ただ、手術台に乗せられた瞬間脚が痛くなかったので、ああ効いてるんだなぁと思った次の瞬間「もけけさん、おわりましたよ」と驚きの報。

私の骨折は転子部ということで、γ(ガンマ)ネイルという術法になった。
血流がいい場所なので、壊死する確率は低いらしい。
頸部のほうが比較的厄介らしい。
大腿骨骨折に関して詳しくは、こちら

γネイルはボルトで固定する術法。写真を見せられて驚いたんだけど、ボルトと言ってもすごく太い。
骨髄の中に一本柱を通して(髄内釘ずいないていと言う)それに向かって外から締め上げる感じか。
ほとんど大工仕事だなぁ。

自分の体にこんなものが埋め込まれるとは思いもしなかった。
骨の真ん中(骨髄)が空洞なのも初めて知った。はじめは穴を縦に開けたのかと思ったけど違かった。

髄内釘は抜くことは無いらしい。ボルトが外れて飛び出してきたら抜くこともあるらしい。こ、怖い。

前から。ふ、太い
横から。なんじゃこれ

もけけ庵ずいない亭の誕生である。

しかし医療ってすごいな。

○3/6(水)
麻酔が切れると激痛が俺を襲う!とほうぼうから言われていたのだがそれほどでもなかった。念の為押すと点滴にプシュと放出される麻酔薬は絶え間なく使っていたが。
あと術後便意がなくなっていたのだが…、まさか。

術後、全身麻酔から内臓が動くまでは食事をしてはいけないらしく、消灯時間の21:00を過ぎてから、コンビニのおにぎりを食べた。
これが死ぬほど美味しくて泣けた。

夜は何度か起きたけど、特に眠れないということではなく、平均的な夜だった。
朝一番で、体洗い部隊がやってきてできる範囲で綺麗にしてもらった。

不特定多数の方にちんちんを晒すことによって、なんとかここまで来た。

そして、普通のパンツを履かせてもらった…。う、うれしい。
ところでオムツって独特の匂いがあることを知った。メーカーにもよるのかな。
悪い匂いではないんだけど、今はもう嗅ぎたくない。

レントゲンを撮るということで、車椅子が用意された。
が、手術したほうの脚がまったくもってストライキ。こんなにも動かないものか…。
脳(無意識)が俺をコントロールしているのだ。

膝を曲げるのも突っ張ってできない。やたら太いし。
車椅子は脚を曲げるのがつらいので、すっとばして歩行器を使いたいと、看護師さんに相談した。

午後になってリハビリの先生が来た。マッサージをしてもらうとすごく楽になった。
魔法のようだった。

そして歩行器を用意してもらって、ゆっくり歩いてみる。あ、歩ける。
ぐるっと病棟を一周する。看護師さんやたまたま居た主治医が驚いていたが、自分には強い意志の力があった。
なんとしても自力でトイレに行かなきゃなんに、という強い意志が。

翌日カテーテルをとってもらい(つけたままでもトイレはできると看護師さんは言うが無理だった)ついに5日ぶりに自力でトイレに行った。
これほど「自由」を感じたことは、人生でもそうそうない。

自由は不自由の側面にあって見えづらい。

2019年4月9日火曜日

骨折日記1ー受傷 2019/03/02(土)

[天気]晴れ
[気温]1~5℃
[体重]62kg
[アクティビティ]仙台→岩出山→馬場温泉の予定が大崎市民病院
[メニュー1]2:10 58km 184W

いやーやらかしました。
ついに自転車乗り二大骨折の一つ大腿骨骨折を承りました。

○受傷
3/2(土)
8:00にかっちゃんと待ち合わせて、馬場温泉まで行く予定。
この道をゆくには例年より早い。今年は春が早いという感覚だった。
天候:晴れ。仙台市内はちょっと寒い程度(放射冷却)。5℃くらい?体調よし。道はドライ。
途中宮崎のローソンで休憩し、サドルを下げた。
岩出山の農道に入り、順調に進む。例年川渡温泉に降りる手前の箇所に雪が残っている。
そこはどうかな?と思っていたが、やはり若干路肩に雪。
少しタイヤが滑る。
2つ目の日陰。やや登り。

あっさりと事が起きる。

かっちゃんの前にでて、この春から使用のRubinoのウェットグリップはイマイチだなと話そうと振り向いた(か振り向こうと思った)瞬間一気に前後輪ともに持っていかれ右大転子を強く路面に打ち付けた。「ゴン」という重い石をアスファルトに打ち付けた感じの響き。
あとでログで確認したら12.5km/hぐらいのスピードだったらしい。
大したことない転倒。ただ全てを大腿骨転子部一点で受け止めてしまった。

はじめは脚がなくなってしまったような感覚。否、感覚がない。
しかし今までの数ある落車とは全く違った状況。

自転車にまたがって横倒しになった体勢。
左クリートがなかなか外れず腹立たしかった。

かっちゃんがよってきてなにか話かけてくれたけど、何も答えられない。
眼の前にある路面を確認すると、いわゆるブラックアイスバーン。
アスファルトに見えていた部分はテロテロの氷だった。

徐々に襲ってくる得体の知れない重い痛み。
どこが痛いのかははっきりわからない。
うずくまるしか手立てがない。

今まで骨折したことがないので、骨折かどうかもわからない。
ブラインドコーナーなので危ないし、移動したほうがいいと、かっちゃん。

かっちゃんの肩を借りて立ち上がるも激痛と足元が滑って立ってられない。
しかたなくなんとか四つん這いの体制になって移動を試みる。

50m先の日向までいけば見通しもいいし暖かい。
数センチ進むだけで人生でこれ以上無いほどの激痛。血の気が引いて気が遠くなる。人間、結構簡単に失神するんだなと思った。

気合をいれてなんとか気を保ち進む。
ほぼ手と左足だけで進むのがこんなに難しいものなのか。右足が重すぎる。

映画とかで銃に撃たれて「うー」とか「はー」とか「ぐー」言うシーンがあるがあれはホントだな。
ああいう声しか出ない。

しまいには左足のハムが攣って悶絶。両足を伸ばして手だけで前進。
この移動中に地元のおじいちゃんが運転する車が通りかかったので、救急車を呼んでもらう。
携帯が入らない場所だったのである。

日向にたどり着いた頃(多分30分くらいかかった)パトカーが到着。
さっきのおじいちゃんがたまたま巡回中の加美警察のパトカーに話してくれたとのこと。
で、救急車を呼んでもらう。
が、携帯が入らない場所だったのである。またか。

微妙に電波が入る場所を見つけてもらい、救急車出動。
自分は地面に突っ伏している状態。
寒くて震えが止まらなくなる。
警察のかたが上着を脱いで体にかけてくれた。
さらにはもう一枚制服を脱いで体の下に差し込んでくれた。
かっちゃんも手ぬぐいを首にまいてくれた。
おかげでなんとか耐えることができた。
もし一人だったらと考えるとゾッとする。冗談抜きで二次的要因で死んでたかもしれない。

救急車も具体的な場所を確認するのに時間がかかっているらしく、なかなか到着しない。
自転車に適した道は、わかりづらい道だよね。

救急車到着。
ストレッチャーに乗せられるとき痛いかなーと思ったけど、それほど痛くなかった。
どうも仰向けに寝てるぶんにはあまり痛くない。

救急隊の方々はとても優しく勝手にころんで怪我した自分にも丁寧に対応してくださった。
足先がものすごく冷たく、救急車のなかでひととおり見てもらった中では、体温が37℃ということが気になる点だった。

搬入先の病院がなかなか決まらない。
個人の整骨院だと入院施設がないところが多いので、おそらく手術が必要となると受け入れられない。

3つ目で大崎市民病院に決まる。
15分ほどで到着。ERと思われる病棟に入る。

仰向けで寝ているとあまり痛くなく触られても痛くないので、ERの先生(若者2人)が首をひねる。
動かすと激痛が。
「脱臼かな」ということで2人の意見が一致。
整形外科の先生も来て「俺はいらないかな?」なんて話をしていた。

念の為CTを取る。CTのベッドに移るときがメチャメチャ痛かった。

CT室を出るときに「骨折してますから手術が必要です」と言われた。

「脱臼じゃなかったのかぁ…」
「どこですか?」「大腿骨です」。写真はこの時点では見せてもらえなかった。
頭の中をいろいろの考えがぐるぐる廻る。
一番は仕事のこと。
今はどうしようもない、という結論しかないのだが。

手術するなら家の近くの方がいいだろうということで、週明けに転院先を探してもらうことになった。

整形外科の先生曰く、「いい折れかた(あるのか?)でもなく、悪い折れかたでもない」らしい。
自転車に乗れるようになるかどうかは50%とのこと。

自転車乗りは大腿骨骨折している人もわりといるので、あまり深刻に受け止めなかったが、ちょっとランディスのことが頭をよぎった。
このときはまだ、大腿骨骨折にもいろいろあるということを知らなかった。

一般的には大腿骨骨折は老人のもので、おそらく病院であつかう例も100%近くそうではないかと思う。

ERの看護師さんが明るい人で、いろいろ話をしてくれて気が紛れた。

そして、、、、オムツを渡された。
まったくもって考えが至らなかったんだけど、自分でトイレに行くことのできない体だということを認識した。

トイレにいくどころか、横をむくことすらできない。いわゆる寝たきり状態になったのだ。

一般病棟に移されて、しばらくするとかっちゃんが家族を連れて来てくれた。
迷惑をかけて申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。
KKさんも見舞いにきてくれた。ケーキが美味しかった。

また、みなさまにツイッターでメッセージを頂き、ありがとうございました。

私が落ち込まなかったのは、みなさまがたのおかけでございます。


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